からだ・こころ・生命 木村敏


主観↔主体の違い
※どちらも認識や行為を行う個人の側の統一原理、個人の意識に内在

フッサール以降の現象学
間主観性」めいめいの主観/主体をひとつにまとめて客観性を保証

★生物一般に共通する原理、生物としての人間にも先天的に備わっている同種識別の原理が人間関係においても働いているはず
→私的間主観性
 ↕
公共的間主観性
→認識や行動の共通基盤、客観性の基礎

◼ヴァイツゼカー
主体(ズプイエクト)→生き物と環境世界との接触現象そのもの、有機体とその環境との「あいだ」の現象(当事者観点)

相即(コヘレンツ)→生き物がその生存を保持するために知覚と運動の両面を動員して環境世界との間で保っている接触(外部的観点)

心的≠主体的
人間以外の全ての生物にまで拡大して適用

個々の有機体と全ての有機体にとって共通の「生命一般」との境界において、主体性が主体を成立させている。

「境界」=主体それ自身の存在のこと

「AはAと非Aの境界あるいは区別である」
(アリストテレス論理学を破っている、反論理)

★同種複数個体の集団的主体性→「私的間主観性


ヴァイツゼカー「生命そのものは決して死なない。死ぬのは個々の生き物だけである」
→「生きている」というアクチュアリティの「非・不連続性」

実在(リアリティ)→認識が完了して事実として確認されたもの

「生きている」という現実(アクチュアリティ)→現在進行中の行為

「生きていること」と「生きているもの」を区別する
ハイデガー存在論的差異
「存在そのもの」と「存在者」を区別して呼ぶ

ノエシス→精神的な知覚作用としての「考える作用」
ノエマ→精神的に知覚されたもの、「考えられたもの」

「意識されたもの」だけに注目するのではなく、「意識するはたらき」それ自身をさらに意識する、一段高次の意識をはたらかせる

音楽の本質→音と音のあいだにある
「シ」→導音(「主音」である「ド」を導く音)

ハイデガー存在論的差異
「存在それ自体」と「存在者」との差異こそ「真の存在」だと考える

生き物に関して内部と外部を区別したり、外界からのインプットと有機体からのアウトプットを考えたりはできない
→生命現象は「閉鎖系」

オートポイエシス→生命の有機構成とは何か

ライプニッツの「モナド」→窓を持たない

二重性(身分、主体性)
・個別的な志向性
・集団的な志向性

個の生死を問題にするかぎり、「集団全体は死なない」

「~を生きる」という他動詞→生きるという行為の主体性を表現

ハイデガー
死とは「この上なく自己自身のものであり、他との関係を絶した、追い越し得ない可能性」