稲葉振一郎『経済学という教養』(ちくま文庫)

 

P203
少なくとも一人については改善し、残りの者たちについても悪化させはしないだろう。→パレート最適

 

P266
マルクス経済学は、不況を不均衡現象としてとらえてしまい、ケインズ的な不完全雇用均衡の概念に到達することはできなかったのだ。

 

P275
マルクスが資本主義、近代ブルジョワ社会の中に見た最高の可能性とは、おそらくこのようなもの、機会(チャンス)の平等はあるが結果の平等はない世界であり、これに対し、未来の共産主義社会とは、あらゆるチャンスについて成功が約束された世界である。

つまりマルクス主義というのは実践的政治政策思想と言うより現世拒否的な(そして、そうであることによって逆説的にも現世の秩序と馴れ合う)宗教思想と言ったほうがいいような構造をしているのである。

 

P295
「人間は弱肉強食の試練に耐えねばならない」という変なモラリズムにはまっちゃってる奴らが結構いるのだ。

 

P296
経済学的な意味での「公共財」とは、平たく言えば「誰でも自由にアクセスして使えて(排除不可能性)、しかも使うに当たって待たされたりすることもなく、使いたい人々の間で取り合いが起きることもなくいっしょに使える(非競合性)ような財」というわけだ。

 

P300
それゆえに公共財の供給を民間に任せてしまうと、採算を度外視してあえて善意でその事業に邁進してくれる篤志家に頼るしかなくなってしまう、つまりは供給不足になってしまう危険が高い、というわけである。

 

P346
「教養」とは何か?~中略~それ以上に重要な第二の要素は「知的分業を可能とする社会的な枠組みと、それへの信頼感の共有」だろう。つまりそれって「公共性」と別のことではないんだ。

 

P356
つまり限られたパイの切り分け方を変え、豊かな人々の負担によって恵まれない人々の状態を改善する、という方法よりも、パイそのもののサイズを大きくして、恵まれない人々の人々も、もともと豊かだった人々も、全員の状態をおしなべて改善する、という方法のほうが、全員の合意を取り付けやすく、実行しやすいことが多い、というのは自明の理ではないだろうか。

 

P382
経済成長なしに技術革新はありえない。技術革新がない、ということは環境負荷低減型の新技術開発もない、ということだ。