竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)

第一章
P 12
この現実と認識の「一致」を、ヨーロッパの哲学では伝統的に「真理」と呼んできたのである。ところが、実際は、現象学のいちばんの功績は、この伝統的な「真理」の概念がなぜ不可能なものであるかをはっきりさせたところにあったのだ。

・記述心理学
・志向性
・根本問題

 

P19
人間を、一定のコードでプログラムされた認識装置としての機械、つまりコンピュータだと考えてみよう(中略)なぜならコンピュータはコードにしたがってだけ「考える」から、このコード自体の「正しさ」をけっして判定することができないからだ。

 

P23
つまり、さまざまなものの「本質」が何かというような問題は、本来人間の理性の能力を超えたものだ。人間は原理的にこの問いには答えられない。(カント)

 

P29
真、善、美という「理想」は認識されるものではなく(それは神のみぞ知る)、ただ人間にとって"意志"されるものなのである。

 

P31
もし主観と客観が「一致」しないならば人間はものごとの「本当」や価値について何ひとつ確実なことを言えない、ということになるし、さりとて主観と客観が一致すると言えば、一切が定められているという「決定論」や「摂理」の考えを避けられないことになるのだ。

すなわち、〈主観/客観〉という前提から出発するかぎり、わたしたちは、論理的には必ず極端な「決定論」か、それとも極端な「相対論」、「懐疑主義」、「不可知論」かのどちらかにいきつくことになるのである。

 

P34
伝統的な哲学が考えたように〈客観〉なるものがあるのだとすれば、真理の認識がかくもばらばらの形で現われるのは不可解である。また〈客観〉がもともとないのだとしたら、つまり全てが人間の思い込みだとすれば、日常に現われる大勢の人間にとって疑いなく「確実なもの」の存在はいったい何に由来することになるのか。

 

第二章
P41
だから問題は、人間が考えるコンピュータとは違った仕方で存在していること、夢と現実とを区別するある原理を、〈主観〉の内側に(コードそれ自体の中に)内在させていることを明らかにする点にあることになる。(フッサール)

 

P42
ではどう考えればいいか。まず、〈主-客〉図式を取り払うこと。つぎに、これが大事だが、したがって人間は〈主観〉の中に、ある「疑いえないもの」を見出し、それを他人と共有せざるをえないような構造を持っている、と考えることである。

 

P44
現象学の場合、この"確信"あるいは「不可疑牲」は特に三つのことについて言われる。ひとつは世界が実在するということの「不可疑牲」、もうひとつは、自然の事物の実在の「不可疑牲」、そしてさいごに〈他者〉の実在の「不可疑牲」である。

・直接判断と間接判断

 

P50
どんな認識や思想にも必ずさまざまな"憶見"がつきまとっているが、そのいちばん底には、もはや憶見と言えないもの、それを疑うことが無意味であるようないわば「確信」の底板というべきものがあると原理的には言える。それをフッサールは「諸原理の原理」、つまり「原的な直観」と呼ぶのだ。

・知覚直観と本質直観
・知覚の元素は特定不可能

 

P55
結論を言うとこうなる。わたしたちが〈知覚〉と呼ぶ意識表象には、他のものとは決定的に違う性質がある。それは〈想起〉、〈記憶〉、〈想像〉などが、ほぼ意識の志向力によってそれを遠ざけたり、呼び寄せたり出きるのに対して、〈知覚〉だけは、つねに意識の自由にならないものとして現れるという点である。

 

P57
〈主観〉はそれをただ自分の内部からのみ、なんらかの対象存在の「不可疑牲」という仕方でだけ得ている。

 

P58
私が聴いているこの音は、「いまここにあるもの」として「偶然的な事実存在」である。ところが、同じこの音は、「音響」とか、「音」一般といわれる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的」なものだ。この音の前者の側面をわれわれは「事実」と呼び、後者の側面をその「本質」と呼ぶ。

 

P63
それは、ある概念(言葉)を外在的な客観に対応するものとして捉えるのではなく、ただ〈主観〉のうちの内在的な意味系列として捉えるという方法をとることになる。

 

P66
「あいつの頭は硬いよ」という誰かの判断は解釈だから他の解釈も成立する。しかし「石は木やガラスより硬い」という判断は、全くの解釈とは言えないのだ。

 

P71
物の〈知覚〉と物の〈意味〉は、ふつう考えられているように実在するものと抽象的なものという分け方出は捉えられないことがわかる。この二者は、いずれも意識の自由を超えたものとして意識に「疑いえないもの」の確信を与える働きをするのである。

 

P73
現象学の課題はむしろ、まず〈主観/客観〉の一致をめざす伝統的認識論は成立しないこと、さらに、論理的には成立しえないはずの人間の共通認識がじっさいにはそれなりに成立していることの理由、またしかし、伝統的認識論の不可能性から認識一般を全否定する必要はなく、そこにある正当性があること、つまり認識の意味を明らかにする点にある。

 

第三章
P78
つまり、空間・時間の地平の拡がり、その唯一同一性、それが原理的に未知性を含むこと、しかし未知の部分も確かに存在するものだという確信、これらが「自然的世界像」の第一の特徴である。

 

P79
〈還元〉を行ううえでのいくつかの要点
1「自然的世界像」につきまとっている一切の素朴な確信(自明性)を怪しいものとして留保しておくこと。 
2「自然的世界像」を基盤にした科学的「学問」の成果、知見の一切をも、また留保すること。
3 科学的「学知」のみならず、いろいろな〈物語〉(神話、宗教上の世界像、諸作品等々)の知見をも留保すること。

 

P80
要するに、「還元」とは、さまざまなドクサ(憶見)の衣装をまとって膨れあがったわたしたちの世界像という王様の権威を、その衣装を一枚一枚はぎとることによって裸にしてしまうことだ。

・純粋意識
・たまねぎの例え
デカルト 芽をコギトと呼ぶ
フッサール 芽の「はたらき」を純粋意識と呼ぶ

 

P83
外側から与えられていることが特定できるもの→「意識相関者」
与えられたとは言えない内側の「はたらき」→「純粋自我」

〈コギタチオ-コギターツム〉
机を見るという意識のはたらき(知覚)⇔ひとつの机を見ているという事象の経験それ自体

〈内在-超越〉原理
内在→原初な体験(不可疑性の根源)
超越→構成された事象経験(一種のドクサ)

★反論★
〈知覚〉や〈本質〉直観を「根源現象」、つまり認識の最小単位として置いたが、どのような〈知覚〉がそれ以上分割できない最小単位かを規定することなどできないのではないか

 

P97
ひとはさまざまなものを疑いうるが、しかし自分の〈内在的知覚〉によって最終的な確かめを行ったとき、もはやそれ以上事象を疑う術を全く持たないことになる。そしてそうなったときには、疑いの動機そのものが自然に消滅してしまう。

 

P98
これはもちろん〈内在〉が正しい判断や認識を保証する、ということをまったく意味しない。むしろ、〈内在〉という不可疑性の底がなければ、およそ、あるものが正しいか誤っているか、うそか本当かという問いそのものが人間にとって不可能になる、ということなのである。

ノエシスノエマ
(コギタチオ-コギターツム)

 

P106
カントの場合その世界の構成は、いろいろな部分を整理表によって組み立ててゆく組み立て工場のようなものだが、フッサールの構成は、いわばイメージの多重化システムのようなものを意味しているからである。

 

P151
「世界の存在やその中のさまざまな事物はいかに存在しているのか」と問うのではなく、「世界やさまざまな事物はなぜ人間にとってそのように存在しているのか」と問うこと、さらにここから、「人間にとって生の意味はどのようにある(あるべきかではなく)のか、それはどういう根拠から現われどういう場面へ向かっているものなのか」ということを、"普遍的"に問うこと。

 

P157
論理的には、いくら明瞭な記憶があってもそれだけではその記憶が絶対正しいことの根拠とはなりえない、と言うことができる。しかし、生活世界においては、誰であっても、いま見たような心の状態を持てば六時という約束が正しいことをそれ以上「疑えなく」なる。たしかに六時たったという確信がいやでもやってくる。だから「明証性」とは〈私〉がさまざまなものごとを「正しい」とか「ほんとうだ」とか思うことの、絶対的で「必然的な」根拠である。そういうことをフッサールは言っているにすぎない。

 

P158
だから「明証性」とはいわば「現実」それ自体の根拠であって「真実」の根拠なのではない。

 

P159
もともと、デカルトから始まったヨーロッパの近代哲学には、基本的に世界を〈私〉の意識へ"還元"するような伝統があった。~中略~これらはいずれも、世界事象を〈私〉の観念へ"還元"することを方法上の基礎としている。

 

P169
なぜなら、サルトルの考え方が、意識=自由を人間のありようの本性として強調するのに対して、現象学はむしろ逆に、意識にとって自由にならないもの、意識の恣意性を超えたものを追いつめ、これを「明証性」、つまり人間にとっての現実というものの根拠として閉めずところに力点があるからである。

 

P182
〈主観〉は、自分の認識が〈客観〉と一致する証拠をつかむことで〈客観〉の実在を確信するのではない。〈主観〉は自己の外に出られないから原理的にこの証拠を得られない。とすれば、むしろ〈主観〉は自己のうちに、自己の自由にならないある対象(=「原的な直観」)を見出だし、これによって自己の「外側に」自己ならざる何ものかの存在(実在)を信じないわけにいかなくなるのだ。これがフッサールの謎解きの骨子だった。この考え方は、それまで等価で対称的なものと見なされていた〈主観〉と〈客観〉という概念のありようを書き換えてしまわずにはおかないのである。

・人間存在(〈気遣い〉として存在)
・事物存在(「道具連関」として存在)

 

P194
ここでとくに注意したいのは、〈現存在―事物存在〉の非対称的な存在性格という点に着目しない限り、近代的な〈主―客〉図式は脱却できないということであり、そして、この考えを徹底するためには、〈主観〉から〈客観〉を規定することは可能だが、その逆はありえないという原理を貫く必要があるということだ。