異形の王権 網野善彦
柿帷、簑笠→非人の服装(中世後期)
飛礫(つぶて)
=古代より行われる、悪党・悪僧的、非人的な武力(鎌倉末、
=原始以来の人類に普遍的な民俗・文化
=中世後期以降、権力に組織された武力に変化
→呪術性、神意性、英雄視、支配者が禁止することができない
@朝鮮半島、秀吉朝鮮出兵時に投石による抵抗
→現代では球技などのスポーツによって代位、解消
異形の人物→高足駄をはく
異形の王権
1.伊賀兼光
2.文観→異形の僧正
-「異類」律僧でありながら武勇、兵具を好む
-悪党・非人を利用する
-祈祷や呪術を駆使
3.後醍醐天皇→異形の天皇
-自ら真言密教の祈祷を行う→文観の影響
-商工民の重視、宋学の摂取
塩の道 宮本常一
平易な語り口
どこの古本屋にもだいたい置いてある
地道なフィールドワーク、文献の研究(自分の足であるく)
それぞれの文化にはそれなりの理由がある
置かれた環境で何とかして生存しなくてはいけない
(周りがとやかく言う問題ではない)
からだ・こころ・生命 木村敏
Ⅰ
主観↔主体の違い
※どちらも認識や行為を行う個人の側の統一原理、
フッサール以降の現象学
「間主観性」めいめいの主観/
★生物一般に共通する原理、
→私的間主観性
↕
公共的間主観性
→認識や行動の共通基盤、客観性の基礎
◼ヴァイツゼカー
主体(ズプイエクト)→生き物と環境世界との接触現象そのもの、
↕
相即(コヘレンツ)→
心的≠主体的
人間以外の全ての生物にまで拡大して適用
個々の有機体と全ての有機体にとって共通の「生命一般」
「境界」=主体それ自身の存在のこと
「AはAと非Aの境界あるいは区別である」
(アリストテレス論理学を破っている、反論理)
★同種複数個体の集団的主体性→「私的間主観性」
Ⅱ
ヴァイツゼカー「生命そのものは決して死なない。
→「生きている」というアクチュアリティの「非・不連続性」
実在(リアリティ)→認識が完了して事実として確認されたもの
↕
「生きている」という現実(アクチュアリティ)→
「生きていること」と「生きているもの」を区別する
ハイデガー「存在論的差異」
「存在そのもの」と「存在者」を区別して呼ぶ
ノエシス→精神的な知覚作用としての「考える作用」
ノエマ→精神的に知覚されたもの、「考えられたもの」
「意識されたもの」だけに注目するのではなく、「
音楽の本質→音と音のあいだにある
「シ」→導音(「主音」である「ド」を導く音)
ハイデガー「存在論的差異」
「存在それ自体」と「存在者」との差異こそ「真の存在」
生き物に関して内部と外部を区別したり、
→生命現象は「閉鎖系」
オートポイエシス→生命の有機構成とは何か
ライプニッツの「モナド」→窓を持たない
二重性(身分、主体性)
・個別的な志向性
・集団的な志向性
個の生死を問題にするかぎり、「集団全体は死なない」
「~を生きる」という他動詞→生きるという行為の主体性を表現
ハイデガー
死とは「この上なく自己自身のものであり、他との関係を絶した、
ランニング近況
ブログの更新は滞っていましたが、ランニングは継続しておりました。
最近のイベント
・5キロコース → 6キロコースに変更
・市のランニングイベントに参加
・ランニングの本を読んで、走り方を改造
毎回同じコースを走っていると飽きてくるし、新鮮味にも欠けるので6キロコースに変更。
11/5に市のランニングイベントがあって参加してきたのだが、意外とこれが良かった。
町の中の自然を感じながらプロのランナーと一緒に走る、という最近のランニングブームを支援するような趣旨と思われる。
なるほどな、と思ったのは下記の2点。
1.ランニング前後に体幹トレーニング行うべし
→筋力をつけるためではなく、「これからここの筋肉使って走るんだよ」という指令をカラダに送るのが目的。
2.ランニングのダメージから体を守るべし
→ランニングは体に良いと思われがちだが、ランニングという運動が体に及ぼすダメージを軽視してはいけない。走る前は勿論、走った後に入念にストレッチを行うことにより、体をケアすることが大事。
ブッコフでこの本を買って読んでみた。
ランニングで大事なのは「丹田」「肩甲骨」「骨盤」の3つ。
腕を振る時にただ振るのではなく、肩甲骨を引くような感じで腕を振る。
そうすると、その反動が骨盤に伝わる。
足で走るのではなく、「肩甲骨」→「骨盤」→「足」の順番で力が伝わることにより、体が前に進んでいくようなイメージ。
実際、これを意識して走ってみたらタイムが短縮したのでビックリした。